一般社団法人中国研究所
中国研究所は、戦後日本で最初に設立された中国研究専門の研究機関です。現代中国およびアジア地域の政治、経済、社会、文化、教育、歴史など諸般にわたる実状を客観的に調査、研究し、学術の発展に寄与するとともに、それを通して中国およびアジア諸地域の人々との相互理解を深めることを目的としています。
太田勝洪記念中国学術研究賞について(略称 太田記念賞)
2004年 3 月27日,元中国研究所理事長(1992~98年),日本現代中国学会理事の太田勝洪(かつひろ)法政大学教授が急逝された。享年68歳。遺族の太田博子氏が故人の遺志を汲んで、「現代中国研究の発展のために」と中国研究所に多額の基金を寄贈された。中国研究所はこれを受けて、日本現代中国学会の参加も得て、「太田勝洪記念中国学術研究賞」を創設することとした。
太田勝洪記念中国学術研究賞規則(2004年10月25日制定)
1.趣旨: 元中国研究所理事長,日本現代中国学会理事故太田勝洪氏の遺志をうけて,「現代中国研究の発展のために」と遺族が中国研究所に寄付された基金を活用して,当年の優秀な中国研究論文を選定して,表彰するものである。
2.対象 :当年間発行の『中国研究月報』,『中国年鑑』および『現代中国』所収の諸論文。
3.優秀論文表彰者には賞状および賞金10万円を贈る。
4.運営委員会は同賞の運営全体を管理する。運営委員会は中国研究所理事会,委員長は中国研究所理事長がこれに当たる。
5.論文審査委員会は中国研究所編集委員会および日本現代中国学会の代表によって構成する。おおむね年初までに審査を終了し,候補論文を選定し,運営委員会に報告する。
6.同賞の発表は中国研究所新年会において行う。
2023年授賞作品(第20回)
横山 雄大「1970年代日中漁業協定交渉再考ーー日本国内政治の観点から」(『中国研究月報』2023年12月号)
【推薦理由】
横山論文は、1970年代における日中間の漁業交渉の過程を、日本の外交文書や上海市檔案館の檔案、また関係者の二次史料や新聞史料などを用いて解明した論文である。一般に、1972年の日中共同声明から1978年の日中平和友好条約の間に締結された諸協定については、航空協定に多くの注目が集まり、漁業協定については必ずしも多くの研究があるわけではない。しかし、漁業協定以外の諸協定が1974年に締結されたのに対して、漁業協定が1975年まで締結がずれ込んだことから見ても、漁業協定をめぐる交渉過程は他の諸協定とは異なる様相を呈した可能性があった。
この漁業協定を扱った先行研究は少ないながらも存在する。代表的なものに、現職の外交官であった小倉和夫の研究がある。小倉は外交文書を利用し、外交史的な手法で実証研究を行っているが、実務協定全体を扱ったためにやはり分析の重点は航空協定にあり、また正式な外交交渉に分析が集中している。また、兪敏浩の研究は比較的長いスパンで日中漁業交渉を扱っているが、史料を十分に用いておらず、交渉史研究として全体像を描ききれていない。これに対して筆者は、漁業協定交渉を集中的に扱い、日中双方の史料を用いながら、さらに外交当局を通じた外交交渉以外の「非公式チャネル」に注目して漁業交渉の全体像を解明した。
考察を通じて本稿はいくつかの重要な論点を提示している。第一に、漁業問題については国内情勢の影響もあって対日交渉で譲歩が難しかった中国が、国交正常化以前の民間交渉の段階からこの問題に深く関与していた金子岩三議員が1974年9月に訪中して以後、態度を軟化させたことである。金子は旋網業界の水産族議員であったが、自民党宏池会の古参議員でもあった。この時期、国交正常化によって日中間には外交関係があったが、それでも依然としてこのような「非公式チャネル」が機能していたこと、そこには国交正常化以前との連続性がみられることを示したのである。
第二に、この時期の日中関係、あるいは中国の対外政策を説明するに際して、文化大革命の下でのイデオロギーの側面、あるいは中ソ対立の下での一条線戦略の下での西側諸国への融和政策という側面などから説明されることが多いが、本論文では、中国国内からの要請もあって対日譲歩ができない中、金子岩三議員からの「圧力」などによって方針転換した中国の対外政策は、単純なイデオロギーでも、また一条線論でも説明がつきにくいものであることを指摘した。「1970年代の中国外交は,中ソ対立という要因から必ずしもすべてを説明できるわけではない」という本論文の主張は説得力がある。
第三に、1970年代に日本の漁業が活力を失う中で、日本の大企業による中国への技術移転や漁撈委託が行われるようになり、結果として中国漁業が飛躍的に進展した。つまり、日本漁業は黄海、東シナ海の漁業に関する「覇権を自主的に中国へと譲り渡した」とする分析ある。これは日中関係史においても重要な指摘であろう。
本稿は、新たな史料、分析視角に基づいて1970年代の日中関係史に新たな一面を見出した実証研究だと言える。筆者自身が指摘するように依然仮説段階だと言える部分もあるが、現状分析の対象が「歴史」になっていく過渡期の論文として、一つのモデルを提供していると言える。本編集委員会は、こうした点を高く評価し、第20回太田勝洪記念中国学術研究賞を授与するにふさわしいと判断した。
『中国研究月報』編集委員会
伊藤亜聖・増原広成「中国のベンチャー企業の生存分析――業種・立地・出資属性に着目して」
(『現代中国』第97号、2023年9月)
【推薦理由】
伊藤・増原論文は、2010年代以降の中国でニューエコノミーが大きく注目されてことを背景に、中国ベンチャー企業の生存期間と生存率を求め、さらに地域別・業種別にCox比例ハザードモデルを推計することで地域要因が企業の生存に与える影響を検討している興味深い研究である。地域内での競争圧力や産業集積による外部性が企業の退出に及ぼす影響についての分析は先進国に関するものが多く、中国やベトナムなどの開発途上国に関するものは少ない。まずこの点で、本稿は貴重な研究であると言える。
また本論文は、2010年代の中国のベンチャー企業データを用い、これらの企業の生存と退出のデータを構築することで、平均的な生存期間を明らかにした。その結果、全サンプルのうちの半数の企業が倒産・退出するまでの中央値は3.17年であることが明らかになった。この生存期間および生存率は時期や業種の違いはあるものの、米国より低く、イギリスよりは高いである。以上のように、本論文は「3年を超えて事業を継続できるかどうか」が、中国のベンチャー企業にとっても大きな課題となっている点を鋭く指摘した。
さらに著者らの推計により、業種別ではより企業数の多い業種で生存率が低下する傾向が見られる一方で、地域別の分析における地域固有の効果はごくわずかであることがわかった。とりわけ出資属性に関しては顕著な差異が見られ、ベンチャー投資を受けた企業はより生存率が高くなる傾向があること、なかでもプラットフォーム企業と国家系投資ファンドから出資を受けた企業の生存率は格段に高いことが示されている。これらの結果から、本論文は、同業の競合企業が多くなると生存が難しくなることを示唆すると同時に、企業数の多い地域で分析期間中の生存率に大きな影響を与える固定的な効果はないという点を浮き彫りにした。
そのうえで、本分析からは中国に特徴的な制度的・政策的な要因が存在することも示唆されている。特にプラットフォーム企業と国家系投資ファンドの出資とベンチャー企業の生存との間には強い相関が確認でき、その背後には企業の潜在的な能力の高さが出資を呼び込む因果関係と、出資が企業の生存をもたらす因果関係が混在している可能性を本論文は明らかにしている。
以上の分析を通じて、本論文は中国のイノベーションの進展を下支えしてきたベンチャー企業の生存と競争環境の一側面を示すことに成功している。また他国とも共通するメカニズムを浮き彫りにすると同時に、中国に特徴的な要因にも目を向けたことで、本論文は中国のベンチャー企業とイノベーションの理解をより一層深めることに寄与したと考えられる。
『現代中国』編集委員会は、以上の点を高く評価し、本稿が第20回太田勝洪記念中国学術研究賞を授与するにふさわしいと判断した。
『現代中国』編集委員会
2022年授賞作品(第19回)
八塚正晃「中国における革命外交と近代化の相克――1970年代の対外援助をめぐる政治過程」(『中国研究月報』2022年9月号)
【推薦理由】
八塚論文は、1970年代における中国の対外援助をめぐる政策転換が、社会主義建設の下で唱えられた革命外交と、1970年代から形成される近代化路線との相克の中で進み、後者の近代化路線が前者の革命外交を凌駕していく様を政治過程として描き出したものである。文化大革命が1966年から1976年まで継続し、1978年の第11期三中全会で路線転向が行われ、改革開放政策が採用されたという、中国共産党政権、あるいは鄧小平政権によって提起された「鄧小平史観(78年画期説)」では理解できない、1970年代、とりわけ林彪死後の国務院主導の経済建設をめぐる政治過程を、対外援助を事例として、実証的に、かつ中国国内の論理を重視しながら描き出されている。文化大革命や政治闘争だけでは描ききれない、実務的な政治家、官僚たちの国家建設の姿が、文革後半期とされる時代を題材に描き出されていることも本稿の特徴だろう。
1970年代の中国の対外援助の政策転換は、援助予算額の大幅な減額とともに、援助対象国の変化として現れた。従来は、軍事支援・一般物資を中心とした無償援助であったが、これを、プラント・プロジェクトを中心とする有償援助への転換として進んだ。援助対象も、従来は多額の援助を与えていたベトナムやアルバニアなどのいわゆる「兄弟国」への援助を大きく減額させていったのである。
先行研究を紐解けば、1970年代の中国の対外政策の転換それ自体はこれまでも指摘されてきている。だが、多くの場合、ベトナムやアルバニアなどが中国に敵対的姿勢を取ったから援助金額を減少させたであるとか、またソ連との関係性から政策転換を説明することが少なくなかった。八塚論文は、そうした先行研究を、中国自身の要因を従属変数としていると批判し、昨今公刊されつつある指導者の回顧録や年譜、そして地方檔案館の文書や『中共重要歴史文献資料彙編』などを利用して、先行研究の課題を克服しようとする。上述の内容と一部重なるが、この論文の意義は以下のようにまとめられるだろう。
第一に、1970年代の中国政治史を中国の援助政策の転換を題材として、「鄧小平史観(78年画期説)」にとらわれない形で描き出したということである。八塚氏は、新たな史料を用いて、林彪の死後以降の周恩来の下にある国務院の実務政治家、官僚(李先念、余秋里ら)の視点に基づいてその政治過程を詳らかにしている。
第二に、先行研究が国際要因を重視したのに対して、国内要因にも焦点を当て、いわゆる文革後半期とされる時期の中国の経済建設と国際要因との相互関係に基づいて、対外援助政策の転換を描き出した。
第三に、新たに利用されるようになっている指導者の回顧録や年譜、そして地方檔案館の文書や『中共重要歴史文献資料彙編』に基づいて、先行研究を克服し、新たな歴史像を提供していく可能性を明示した点だろう。
本稿は、現代中国の政治過程を中国共産党自身が創出してきたナラティブとは異なる政治過程として実証的に描き出す一つのモデルを提供していると言えるだろう。本編集委員会は、こうした点を高く評価し、第19回太田勝洪記念中国学術研究賞を授与するにふさわしいと判断した。本稿でも言及のある関連論文の公刊などによって八塚氏の研究がいっそう進展することを祈念することとともに、中国ではおこないにくい『中共重要歴史文献資料彙編』に基づく新たな中国政治史研究が進展し、日本の中国研究の存在意義が高まることを期待したい。
『中国研究月報』編集委員会
陳希「労乃宣と切音字運動」
(『現代中国』第96号、2022年9月)
【推薦理由】
本論文は、清朝末期の音韻学者である労乃宣と切音字運動の関わりを考察したものである。切音字とは漢字の表音機能の欠如を補うために考案された表音文字であり、その普及を図った運動が切音字運動である。労乃宣は、切音字運動のさまざまな側面において大きな役割を果たしていたが、従来の研究は労を方言尊重派として扱うのみで、彼がなぜ切音字運動に取り組むことになったのか、彼の参与によって切音字運動にどのような変化が起こったのかという点については、十分には検討されてこなかった。本論文は、従来の研究において検証が不十分であったこの二つの問題の解明を目的とし、時系列的にかつ多面的に労乃宣という人物の思想と活動について考察したものである。
具体的には、本論文は以下のことを明らかにしている。労は1905年に地方官を務めた時期の経験から民衆教育を喫緊の課題として認識するようになり、伝統的音韻学の学識を運用して「簡字」を作り出した。1905年から07年にかけて立憲派の高官である端方らの支持を受けながら、南方における「簡字」の普及に成功した。その過程において、労は「簡字」の反対者と論争を交わしつつ、「方言を媒介として官話を学習する」 という理論を提唱するようになっていった。また同時期に、切音字運動の主旨、すなわち漢字とは異なる種類の文字による漢語表記体系を作るという目標を明確化していった。1908年に立憲制実施のためのプログラムが公布されると、選挙制度実現のための必須の前提として、民衆の識字率を速やかに向上させることが急務となり、識字能力もまた選挙民の素養として不可欠な条件となった。この際、労はより多くの民衆に公民権を与えるべく、漢字の識字者のみならず「簡字」の識字者にも選挙権を与えるべきだと主張し続け、多くの立憲派から支持を受けた。これにより切音字運動は強く政治化し、立憲の根本に関わる公民の養成を指向する運動となっていったのである。
清朝末期の音韻学者として知られる労乃宣であるが、従来は政治的には保守派と認識されてきた。その労が、社会的多様性を重視した民衆派ともいうべき人物だったとの指摘は意義深い。また言語教育学の観点からも、労による言語統合の考察は興味深い。総じて、清末時期の中国において、言語・文字の改革が持った政治的・社会的意義を検討し、従来とは異なる角度から近代中国の共通語形成史を描き出した斬新かつ示唆的な論考であるとみなすことができる。
『現代中国』編集委員会は、以上の点を高く評価し、第19回太田勝洪記念中国学術研究賞を授与するにふさわしいと判断した。
『現代中国』編集委員会
2021年授賞作品(第18回)
小栗宏太「不協和音―香港逃亡犯条例改正反対デモに見るポピュラー音楽と抗議運動」(『中国研究月報』2021年2月号)
2020年授賞作品(第17回)
片山ゆき「医療保障をめぐる官民の攻防―ITプラットフォーマーによる新たな医療保障の提供」(『中国研究月報』2020年4月号)
2019年授賞作品(第16回)
周俊「中華人民共和国建国前夜における幹部の南下動員に関する考察―華北地域の農村・都市部の比較から」(『中国研究月報』2019年10月号)
2018年授賞作品(第15回)
古川ゆかり「中国における中間所得層の高齢者福祉の行方―浙江省仙居県域の事例より」(『中国研究月報』2018年11月号)
2017年授賞作品(第14回)
団陽子「中華民国の対日賠償要求と米中関係―日本海軍の残存艦艇処分問題を中心に」 (『中国研究月報』2017年11月号)
2016年 授賞作品(第13回)
金野純「文化大革命における地方軍区と紅衛兵―青海省の政治過程を中心に」 (『中国研究月報』2016年12月号)
2015年授賞作品(第12回)
テグス「1960年代中国におけるモンゴル語の語彙問題―「公社」「幹部」の表記問題を中心に」(『中国研究月報』2015年10月号)
2014年授賞作品(第11回)
前野清太朗「19世紀山東西部の定期市運営をめぐる郷村政治―孔府檔案からの検討」(『中国研究月報』2014年2月号)
2013年授賞作品(第10回)
津守陽「「におい」の追跡者から「音楽」の信者へ―沈従文『七色魘』集の彷徨と葛藤」(『中国研究月報』2013年12月号)
濱田麻矢「遥かなユートピア―王安憶『弟兄們』におけるレズビアン連続体」(『現代中国』第87号)
2012年授賞作品(第9回)
杉谷幸太「『青春に悔い無し』の声はなぜ生まれたか―『老三届』の世代意識から見た『上山下郷』運動」(『中国研究月報』2012年10月号)
2011年授賞作品(第8回)
鹿錫俊 「ヨーロッパ戦争開戦前後の蒋介石―日記から読み解く中国当局者のシナリオ」(『中国研究月報』2011年8月号)
菅原慶乃 「越境する中国映画市場―上海からシンガポールへ拡大する初期国産映画の販路」(『現代中国』第85号)
2010年授賞作品(第7回)
篠崎守利「『紅十字会救傷第一法』,訳出と再版の意味するもの」(『中国研究月報』2010年7・8月号)
杜崎群傑 「中国人民政治協商会議共同綱領の再検討―周恩来起草の草稿との比較を中心に」(『現代中国』第84号)
2009年授賞作品(第6回)
石井弓「日中戦争の集合的記憶と視覚イメージ」(『中国研究月報』2009年5月号)
2008年授賞作品(第5回)
堀井弘一郎 「汪精衛政権下の民衆動員工作―『新国民運動』の展開」(『中国研究月報』2008年5月号)
朴敬玉「朝鮮人移民の中国東北地域への定住と水田耕作の展開―1910~20年代を中心に」(『現代中国』第82号)
2007年授賞作品(第4回)
大川謙作 「ナンセン(nang zan)考―チベット旧社会における家内労働者の実態をめぐって」(『中国研究月報』2007年12月号)
日野みどり 「1970〜80年代香港の青年運動―『新青学社』とその活動を通じて」(『現代中国』第81号)
2006年授賞作品(第3回)
三船恵美 「中ソ対立期における中国の核開発をめぐる米国の戦略批判の系譜 ―1961年~1964年における 4 パターンの米中関係からの分析視角」(『中国研究月報』2006年8月号)
2005年授賞作品(第2回)
砂山幸雄「「支那排日教科書」批判の系譜」(『中国研究月報』2005年4月号)
2004年授賞作品(第1回)
篠崎香織 「シンガポールの華人社会における剪辮論争─異質な人々の中で集団性を維持するための諸対応」(『中国研究月報』2004年10月号)
北川秀樹「中国における戦略的環境アセスメント制度」(『現代中国』第78号)